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西園寺氏(さいおんじし)は伊予西部を領有した戦国大名。本姓は藤原氏。家系は閑院流 西園寺家の支流にあたる。
伊予西園寺氏 伊予の西園寺氏は、室町時代から戦国時代にかけて伊予国南西部の宇和郡一帯(愛媛県西予市周辺)に勢力を持った武家である。 宇和地方は鎌倉時代中期の西園寺公経のときに西園寺家によってほとんど横領に近い形で所領とされ、自己の荘園とした。鎌倉幕府滅亡から南北朝分立に至る動乱と西園寺本家断絶の混乱の中で、西園寺家庶流の西園寺公良が宇和郡に入り、在地の土豪を支配下に組み入れて領国支配を開始する。 戦国時代に入ると、伊予東部の河野氏や、土佐の一条氏、九州豊後の大友氏の侵攻に遭って次第に衰退していった。天正12年(1584年)、長宗我部元親の侵攻に遭って当主西園寺公広は長宗我部氏に降る。そして天正13年(1585年)、長宗我部氏が豊臣秀吉の四国侵攻に遭って本国土佐を除く3国を没収されると今度は秀吉に降伏することになるが、宇和には新領主として戸田勝隆に封じられてしまい、天正15年(1587年)に公広が戸田勝隆に殺害されるに及んで伊予西園寺氏は滅亡した。 ちなみに伊予西園寺氏に仕えていた土居清良が書いたとされる軍記物『清良記』(巻七「親民鑑月集」は日本最古の農書とされている)には同氏に関する記述があるが、信憑性には乏しいと言われている。 現在も西予市の隣、八幡浜市日土町の一部地域に西園寺氏一族の末裔と見られる家々がある。 関連項目 伊予国 西園寺家 西園寺十五将 土佐一条氏 姉小路氏 北畠氏 浪岡氏 *さいおんしし さいおんしし さいおんしし さいおんしし ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国合戦一覧?■戦国合戦■長享・延徳の乱 ■毛利次郎の乱 ■如意ケ嶽の戦い ■船岡山合戦 ■有田中井手の戦い ■桂川原の戦い ■田手畷の戦い ■享禄・天文の乱 ■中嶋の戦い ■大物崩れ ■花倉の乱 ■国府台合戦 ■安城合戦 ■吉田郡山城の戦い ■月山富田城の戦い ■天文の乱 ■小豆坂の戦い ■河越城の戦い ■小田井原の戦い ■舎利寺の戦い ■江口の戦い ■川中島の戦い ■黒井城の戦い ■防長経略 ■長良川の戦い ■稲生の戦い ■桶狭間の戦い ■野良田の戦い ■教興寺の戦い ■湯所口の戦い ■長島一向一揆 ■東大寺大仏殿の戦い ■信貴山城の戦い ■観音寺城の戦い ■八流の戦い ■金ヶ崎の戦い ■姉川の戦い ■野田城・福島城の戦い ■白井河原の戦い ■比叡山焼き討ち ■西上作戦 PR |
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宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔鳴尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。914年までは、胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。 歴史 古代は、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。 仲哀天皇の頃、神功皇后が三韓征伐の直前に来宗した際に、宗像氏が宗像大神に神助を賜う。 雄略天皇が新羅に親征しようとしたが、宗像三女神のお告げにより中止する。 645年、大化の改新によって、国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、神郡の行政を司った。また、遠賀郡などの郡司も兼ねる。 654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。 天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。 690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。 767年、宗像大領で朝臣の宗像深津(宗形深津)の夫人に竹生王という皇族が降家した。 788年、宗像氏の中から潔清廉貞での祭事者を選んで神主とし、任期を6年と定めた。 800年、宗像大領が宗像神主を兼任することが禁止された。 914年、宇多天皇の御子源清氏に宗像の姓を賜り、宗像の地に配された。この頃から、宗像氏が大宰府の高官に任命されるようになった。 979年(天元2年)、太政官の命により、大宮司職が設けられる。 宗像氏は、自分の荘園を守る為に、京都の八条院と領主・本家の関係になる。 平安時代末期、大宰帥に宗像氏の名が見られる。 1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。 1281年、弘安の役が起こる。宗像長氏は元(蒙古)の侵略から防戦し、鎌倉幕府から肥前国神埼郡神埼荘を賜る。 1330年、倭寇を指揮する。 1334年、宗像氏が帆柱山城を攻撃する。 1335年、北条時直の遺児が越後左近将監と謀り、佐加利山城で蜂起する。宗像氏範が鎮圧のために吉田頼景らと佐加利山城を攻撃する。 1336年、宗像氏範が入宗した足利尊氏を助け、多々良浜の戦いなどで奮戦する。その結果、楠橋荘(北九州市八幡西区)を与えられる。 1344年、壱岐の石田郷の地頭を、後に壱岐の守護を兼任した。 1375年、宗像氏経が、足利義満の命で菊池氏の領地である肥後国を攻めて、八代城を包囲する。その留守に宗像を攻めた少弐忠資を降伏させた。 関連項目 許斐氏 宗像大宮司の一覧 宗像大社神主の一覧 ! むなかたし ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国武将一覧?■蒲生氏郷■前田利長 ■池田恒興 ■堀秀政 ■大友宗麟 ■鈴木重意 ■島津義久 ■十河存保 ■仙石秀久 ■真田昌幸 ■鈴木重則 ■猪俣邦憲 ■細川忠興 ■古田織部 ■浅野長政 ■前田玄以 ■長束正家 ■増田長盛 ■福島正則 ■加藤清正 ■脇坂安治 ■平野長泰 ■糟屋武則 ■片桐且元 ■石田三成 ■島津貴久 ■島津忠良 ■本多正信 ■大久保長安 ■奥平貞能 ■本多忠勝 ■服部半蔵 ■板部岡江雪斎 ■大久保忠世 ■鳥居元忠 ■真田幸村 ■大谷吉継 ■後藤基次 ■毛利勝永 ■大野治長 ■明石全登 ■豊臣秀頼 ■筒井順慶 ■筒井順昭 ■最上義光 ■最上義守 ■長宗我部国親 ■長宗我部信親 ■九鬼嘉隆 ■村上武吉 |
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