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【2024/04/23 22:16 】 |
松川の戦い とは?

松川の戦い (まつかわのたたかい)は、『改正三河後風土記』(第42巻:上杉・伊達合戦の事)、『常山紀談』(巻之16:伊達上杉陸奥国松川合戦の事 附永井善左衛門 岡左内が事)、『東国太平記』(巻第15:松川合戦政宗福島ノ城ヲ攻ムル事)、『会津陣物語』(第4巻:松川合戦に政宗、福島城を攻める事、井せて須田大炊介、政宗と逢隈川合戦(陣幕を切り取る)事)によれば、慶長6年(1601年)4月26日に、現在の福島県福島市の中心部で伊達政宗と上杉景勝 麾下の本庄繁長 ・須田長義が戦った合戦だとされる。
松川合戦の時期は、『常山紀談』には慶長6年4月、『改正三河後風土記』『東国太平記』『会津陣物語』には、慶長6年4月26日と明確に記載されている。しかし、伊達家には慶長5年(1600年)10月6日付中嶋左衛門宛伊達政宗書状、10月14日、10月19日付今井宗薫宛政宗書状、その戦功を賞する返書として10月24日付伊達政宗宛徳川家康 書状が残されており、慶長5年10月6日に何らかの戦闘行為が行われたのは間違いないであろう。
この合戦(「松川合戦」「宮代表合戦」)に関しては、伊達家と上杉家は双方で戦果を強調しており、また時期を巡っても研究者の間でも、慶長5年10月説、慶長6年4月説、混合説がある。このため、頼山陽の『日本外史』を含めて幕末期まで流布した慶長6年4月26日の「松川合戦」の内容と経緯と、『伊達治家記録』や伊達家文書が記録する慶長10年6日の「宮代表合戦」の内容を併記する。
『改正三河後風土記』等に記載された“松川合戦”の概要と経緯

“松川合戦”の概要は、徳川幕府の奥儒者である成島司直により、幕末期の天保4年(1833)に『三河後風土記』を改撰した『改正三河後風土記』の第42巻に、「上杉伊達合戦の事」として詳細が記述されている(出典として、夏目記、安民記、武隠叢話、藩譜)。この合戦の時期は誤り多く、「慶長5年7月27日、28日(原書)、7月21日説(家忠日記)は共に誤りであり、夏目記・安民記に従い、慶長6年の事とす。武隠叢話に載せたる上杉の家士北川次郎兵衛の記も夏目記に同じ。藩譜の注文に北川ガ記詳らかにしてよりどころあり」と記述されている。
慶長6年4月26日、伊達政宗は、上杉領に侵攻するも、上杉勢の必死の抵抗の前に敗走する。
“松川合戦”前夜

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、翌年3月の前田利家の死去、石田三成 の失脚を経て、徳川家康 の権力がますます増大した。慶長4年(1599年)8月、上杉景勝 は所領の会津若松城へ帰城した。景勝は前年初めに秀吉の命により越後国春日山城から会津領120万石へ国替えになったばかりであり、領内統治をほとんど施していない状況であった。景勝は早速、領内の道路の開削・整備や支城の普請等など領内の整備をおこなった。
また、居城を新たに新築して会津若松城から遷すことを考え、若松城から北西3kmのあたりに築城を開始した(神指城)。しかし、隣国越後の堀秀治は、このような上杉領内の動きを逐一徳川家康 へ報告した。その内容は上杉氏が隣国の堀秀治や最上義光 の領内を攻めることを目的に道路や支城の整備・居城の築城をおこなっているという旨のものであった。また、景勝家臣・藤田信吉が江戸城へ出奔し、徳川秀忠に上杉方の内情を話した。家康は景勝に上洛して弁明するよう求めた。しかし、景勝はその申し出を拒絶し、そのため家康は景勝を謀反人とみなして諸大名に上杉氏征討を命じた。
慶長5年(1600年)6月6日、大坂城西出丸において軍議が招集され、家康・秀忠が白河口、佐竹義宣 が仙道口、伊達政宗が白石口、前田利長 ・堀秀治が越後口と布陣が決定した。家康は6月18日に伏見城を出発し、江戸城を経て7月下旬に下野国小山へ着陣。一方、白石口を担当することになった伊達政宗は急ぎ京都を発ち、相馬領を経由して帰国し、7月12日に名取郡北目城へ入り、ここを上杉攻めの拠点とした。しかし、上方で石田三成 が家康打倒の挙兵をしたことを知った家康は、白河口を次男・結城秀康へ任せ、自らは江戸城に引き返した。これを知った景勝は家康追撃をおこなわずに会津若松城へ引き上げた。
そして、上杉氏との同盟を破棄して家康方に付くことを鮮明にした最上義光 の山形城を家臣・直江兼続 に攻め入らせた。直江軍は怒濤ごとく山形城を進撃し、ついには山形城の前衛基地・長谷堂城を取り囲むにいたった(長谷堂城の戦い)。一方、政宗は刈田郡に進撃し、白石城を落とした。このような状況の中、9月15日の関ヶ原の戦い において徳川方(東軍)が勝利した旨の報告が各陣営に届く。直江兼続 は長谷堂城の囲いを解き、自領へ撤退したのである。
“松川合戦”の経過

関ヶ原合戦以降の伊達政宗の侵略

関ヶ原合戦後、伊達政宗は徳川家康 からみだりに軍勢を動かすべからずとの命を受け、心ならずも岩手山城へ引き返したが、上杉領への侵略やみがたく、家康の下知をまたずに慶長5年10月6日、本庄繁長 が立て籠もる福島城へ押し寄せた。これを察知した福島城兵の永井善左衛門が伏兵を討ち取ったため、政宗は白石まで引き返した。政宗は翌7日長井郡湯原へ出ようとしたが、上杉方の甘粕備後守清長が巡見に来ており、更に上杉景勝 が2万ばかりの大軍で境目まで出張するという報に接して驚き、早々に引き返していった。景勝もまた会津へと引き返した。
翌慶長6年になっても政宗の侵略は続いた。慶長6年2月7日、政宗は伊達郡へ侵攻したが、本庄繁長 ・満長、宮代砦の守将八内図書の厳しい防戦によって撃退された。
慶長 6年3月24日政宗は再び出馬し、25日白石城に着、28日には福島城に襲来した。この時、福島城兵岡左内は城から打出て、政宗方木幡四郎左衛門を組み伏せ、その首を取った。福島城が容易に落ちないと見た政宗は、梁川城へ矛先を転じようとしたが、梁川城の須田大炊は29日伏兵をもって迎撃、政宗勢は四方を取り囲まれて大敗し、散々に敗走していった。
慶長6年4月26日の松川での激戦

上杉との合戦で度々敗軍したこと、福島・梁川城を攻めとれなかったことを無念に思った伊達政宗は、慶長6年4月16日再び白石城から出撃した。伊達軍は21日本陣を小山に移し、25日瀬上を経て26日の暁に松川に達した。松川では福島城の杉原・甘粕・本庄出羽守・栗生美濃守がこれを迎え撃った。両軍入り乱れ、伊達政宗と岡左内が川中で太刀打ちを行うほどの大激戦になったが、上杉方はしだいに追い崩されて敗走、散々になり福島城へ逃げて行った。この時青木新五兵衛は鎗にて伊達政宗の内兜を突き立て、前立物にあてた。
本庄繁長 は、ひそかに伊達勢の後ろを襲撃しようと兵をまわしていた。福島城の城兵が危ういとみた梁川城守須田大炊は、阿武隈川を渡り、遮二無二政宗本陣を目がけて切り掛かった。政宗勢は散々切り立てられ、軍伍散乱して敗走をはじめた。この乱戦の中で齋野道二が真っ先かけて政宗に切り掛かり、政宗の猩々緋の陣羽織を切り裂いたため、政宗は跡を見ずに逃げ去っていった。この時に伊達家の宝物九曜の紋の幕、紺地黄糸法華廿八品の幕を、須田の組西村仙右衛門、曾田宇平次が奪い取った(脚注:世に竹の雀の紋幕をとりしというはこの事なり)。
更に本庄繁長 が福島城の西門から打ち出て、伊達政宗の陣屋に火をかけ小荷駄を燃やしたため、政宗はもはや戦場にとどまることができず、大崎へと逃げ帰っていった。(出典『改正三河後風土記』)
松川合戦の時期と逸話

「改正三河後風土記」

「政宗度々敗軍し無念に思い、早く軍を止むべきよし、しばしば台命を蒙りながら、福島・梁川両城を責めとらずしては置くべからずと、(慶長六年)四月十六日又白石を出勢す。此時伊達上野介成実斥候をよくす。廿一日政宗本陣を小山にうつす。…政宗兼て土民に金銀多くあたえ、上杉方の油断を聞出し、廿五日夜半に小山を内立瀬上をへて、廿六日暁松川に着」
「東国太平記」「会津陣物語」

「政宗は度々の合戦に打負け、無念たぐひはなかりけり。去年七月江戸より中澤主税を御使にて、景勝と取合う事深く御制止ありけるに、其御意を用ひず、あまつさえ数度の後れを取りたるければ、何とぞして一戦に勝って御前の申し分仕りたしとぞ願はれける、是により慶長六年4月十七日、…二萬五千を引率し、白石の城に着かれけり。…政宗は廿一日に白石の城を立ち、松川に陣を取たりける、…政宗二萬余にて、四月廿五日の夜半に小山を立ち、瀬の上を通り、廿六日の未明に松川さして押し寄す」
「常山紀談」

「慶長六年四月伊達政宗奥州景勝の地を斬取らんと百姓を間者にしておこたりを伺えり。…政宗は国見峠を踰信夫郡より瀬の上の川を渉り。五千の兵にて梁川の城を押え松川をさして押寄せる。…岡野(左内)猩々皮の羽織着て鹿毛なる馬に乗り。支え戦ひけるを政宗かけ寄せ。二刀切る岡野ふり顧て政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切付。かえす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ岡野すかさず右の膝口に切付たり。政宗の馬飛退てければ岡野政宗の物具以の外見苦しかりし故。大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが後に政宗なりと聞きて。今一太刀にて討取るべきにと大に悔やみけるとなり」
(※松川での川中での岡左内と政宗の太刀打ちの逸話は、「改正後三河風土記」「東国太平記」「会津陣物語」(杉原彦左衛門、物語覚条々)の全てに記載され、いずれも慶長六年四月廿六日で一致している。)
慶長5年10月6日の伊達家の福島侵攻(宮代表合戦)

一方、この上杉家との合戦(伊達家では「松川合戦」との呼称は用いない)の出兵の時期と戦いの経緯について、伊達家では、慶長6年(1601年)4月26日ではなく、慶長5年(1600年)10月6日だとする記録を残している。また徳川家康 書状によれば、福島表へ侵攻した伊達家への返書は慶長5年(1600年)10月24日付けでなされている。以下は伊達家の福島侵攻の概要である。
伊達政宗は東軍勝利の知らせを聞くと、10月5日、好機到来とばかりに約2万の兵を率いて北目城から伊達郡・信夫郡へ出陣した。6日朝、伊達政宗は国見山に本陣を置いた。一方の上杉軍は福島城の本庄繁長 、梁川城の須田長義を中心に約6千の兵のみであった。伊達軍は圧倒的な兵をもって信達盆地(福島盆地)へ攻め入り、本庄繁長 軍と戦った。
伊達軍は本庄軍を正面から数で圧倒し、瀬上(せのうえ)町へ追い込んだ上、宮代(福島市宮代)で上杉勢物頭の桑折図書ら多数を討ち取った。松川付近では、岡左内、齋道二(註1)等と屋代景頼、茂庭綱元の部隊が激突したが、安田勘助、北川伝右衛門など、上杉方の名のある武者が軒並み討ち死にした。上杉の敗兵は羽黒山と福島城へ四散した。伊達勢は庭坂、大森周辺へも進出し、米沢と福島間を完全に封鎖した。また福島から会津へ内通の書を持参した上杉方の使い、その外二三人を討殺した。
「伊達政宗最上陣覚書
慶長五年庚子十月六日宮代表御合戦
一番 茂庭石見(綱元)
同主水(良綱)
二番 片倉備中(景綱)
三番 屋代勘解由(景頼)
備中二番ニ候へ共、為御意、脇道参候ニ付、宮代御合戦ニ逢不申、福島虎口へ懸著、鐵炮掛申候砌、物頭二名討死、
一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷 譜代之由及承候)」
「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他二三人討捕、験越候、満足ニ候、今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状)
註1:「齋道二、岡左内モ、松川ニ於テ小返ス。永井・青木ハ黒母衣ヲ掛ケ、十文字ノ鑓ヲ持タリ。道二ハ金ノ簾ノ指物ヲ指テ、殿後ス。勘解由兵衛家士荘子隼人ト太刀打シテ、引退ク。此時隼人、熊毛ノ羽織ヲ着セリ。道二見テ、公(政宗)ノ朝鮮御陣ニ、熊ノ御羽織ヲ着玉フ由ヲ聞及ヒ、政宗ト太刀打シタルトテ、荒言(偽リ言)スト云ヘリ。岡左内モ、公(政宗)ト太刀打シタルト云ウ説アリ。偽リナリ」『伊達治家記録』)
伊達政宗は福島城の目と鼻の先である羽黒山(信夫山)の麓黒沼神社に本陣を置き、首級実検を行った(首級三百余、武頭五人、他馬上百騎討ち取り))(註2)。福島城城主本庄繁長 は、野戦の不利を悟り、宮代で敗れた軍勢を撤収し、籠城策をとったが、一時は伊達軍の中に全軍で突入し、切り死にを遂げようと覚悟する状況に迄追い込まれた(御本陣ヘ突懸リ討死スベシト議定シ 註3)。
一方福島城の防備は堅く、伊達軍にも死傷者が続出した。片倉景綱の部隊は福島の町曲輪まで押し詰めて多数の上杉兵を討ち取ったが、上杉側の反撃も厳しく、片倉家臣の物頭国分外記らが討死にした。砂金実常は数十騎を率いて羽黒山南麗に布陣し、福島町へ銃撃を加え、迎撃してきた上杉勢を福島城の中へ追い込んだ。砂金実常が銃撃の手を緩めると、上杉勢は福島城の西門から出て反撃してきたが、砂金の部隊に斬り立てられ、再び福島城の中へ逃げ入った。
この時、伊達政宗は羽黒山麗に本陣を構えていたが、片倉景綱を呼び、福島城中の様子を問うた。景綱は、既に町曲輪まで攻め込み、福島城を陥落させることは間近であるが、味方の手負いも多く、一端引き揚げるのが上策であると返答した。政宗は景綱の言を入れて福島城への攻撃を中止し、福島城へ釣瓶討ちに銃撃を加えた後、国見山へ帰陣した(註4)。
伊達軍が国見山へ移動中、上杉方梁川城の須田長義旗下車丹波等が、馬上百騎・小手六十三騎等を含む足軽百人ばかりを引き連れて梁川城から大隅川を渡り、藤田と桑折の間で伊達勢後尾の小荷駄隊を急襲した。彼らは小荷駄奉行の宮崎内蔵助や足軽・人足等多数を討取り、兵糧を奪って梁川城へ引き上げた(この際に須田の部隊は伊達家の「竹に雀」の定紋の帷幕を奪い、永く上杉家の誇りとしたと云うがこれは軍記の創作で、そもそも「竹に雀」は上杉家の紋である 註5・6)。
伊達政宗は、福島表から国見山へ帰陣した際、摺上河原に諸将を召集し、屋代景頼に対してその武功を讃え酒杯を与えた。政宗は桑折東下篭で梁川表を遠望した後、国見山へ着陣した。
註2:「敵兵悉ク福嶋ヘ逃入ノ後、公、羽黒山ノ麓、黒沼神社ノ邊ニ御本陣ヲ備エラレ、首級ヲ実検シ玉フ。濱尾漸齋御側ニ同候シ、披露ス」『伊達治家記録』)
註3:「今日本荘出羽、公押付ケ攻入玉フヘシ、御本陣へ突懸リ討死スヘシト議定シ、内冑ニ伽羅ヲ焼留メ、且ツ手廻リノ人数ニモ高名ノ心懸ヲ止テ、只鎗ノ柄ヲ短く切詰メ、眞丸ニ成テ突懸ルへシト下知シ、御人数ノ攻入ヲ待ツ處ニ、諸手ヨリツルヘ鉄砲ヲ懸ルヲ聞テ、扨ハ御人数ヲ引揚ラルト見エタリ、城中ヨリ打出ハ、附入ニ城ヲ乗取リ玉フヘキ手術ナルヘシ、必ス働キ出ル事ナカレト総人数ニ不知スト云フ」(『伊達治家記録』敵軍始末ノ義雑賀小平太壽悦説ニ據テ記ス)
註4:「公、御本陣羽黒山ノ麗へ、片倉備中(景綱)ヲ召寄セラレ、城中ノ様子ニ依テ、御人数ヲ引揚ラレヘキ哉ト仰セラル。既ニ町曲輪マテ乗崩ス間、強テ攻入ラハ、城ヲ落ト事、頃刻ナルヘシ、然レトモ、御人数多費ユヘシ。先ツ引揚ラレ、然ルヘシト言ス。因テ諸手ニ命セラレ、一同ニツヘ鐵砲ヲ放テ、総御人数ヲ引揚ケラル。」(『伊達治家記録』)
註5:「慶長六年伊達政宗出軍於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品、武誉尤抜等倫」(『梁川城代須田系譜』)
註6:「或説ニ、此時、公ノ御陣幕ヲ奪取ラルト云フ。又亘理右近殿定宗荷物ノ内ニ、竹ニ雀ノ紋付タル幕アリシヲ奪取ラルトモ云ヘリ。両説不決」(『伊達治家記録』)
6日夜、伊達の国見山本陣に、上杉景勝 家臣藤田能登家士斉藤兵部が、伊達・信夫の百姓等4千人を伴い内通してきた他、直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠が伊達成実 に協力を申し出てきた。 福島城への再攻撃が検討されたが、上杉軍による仙道・梁川筋からの挟撃の懸念を石川昭光が言上し、また梁川城への謀略工作が不調に終わったため、政宗は再征を断念した。翌7日伊達軍は国見山に津田景康の部隊を残して陣払いし、北目城へ帰城した。
9日、政宗は、桑折宗長、大条宗直等に以下の書状を与えた。
「今度之動、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ條條、 能候ト存候 十月九日 政宗」(慶長五年十月九日 桑折宗長、白石宗直、大条宗直宛政宗書状」
10月14日、政宗は今井宗薫に戦いの結果を報告すると共に、同19日徳川家康 に対して11ヶ条の申し出を託した。この中で、政宗は徳川家の軍勢を会津へ駐屯させることを提言し、又山岡志摩を通して申入れていた宮城郡国分千代への新しい居城(仙台城)の築造許可の催促等を求めた。
「去六日より福島へ動仕、得大利申候、様躰先達具ニ條々申入候、最上へ人衆遣、又動、其外ニ人悉草臥申候へ共、内府様無御下向以前、何とそ仕度候 十月十四日 宗薫老 政宗」(慶長五年十月十四日 今井宗薫宛政宗書状」
「今井宗薫へ被遣候御覚書
内覚
一 虎菊丸(忠宗)禄之事
一 兵五郎(秀宗)事
一 大坂伏見屋敷之事 口上
一 佐スチ以来共御鹽味之事
一 岩城之事 口上
一 八月廿八日相馬ヨリ手切可仕由必定ニ付而、直江人數催、フク嶋江参候事 口上
一 會津ニ御手前之衆置申度事
一 南部之事
一 上方ニテ廿萬石カ十五萬石ホトノカンニン分申請度事 口上
一 ここ元居城之事
一 貴老江千貫之知行可進候、乍去右之儀共調候ハゝ、如御望二千貫之所可進候事、口上 條條、
以上 十月十九日 宗薫老 政宗」(慶長五年十月十九日 今井宗薫宛政宗書状」
慶長5年10月24日、徳川家康 は政宗に対して、この福島表における戦功を賞した。また10月15日の書状と24日の書状の中で、翌春上杉景勝 を征伐する方針を伝えた。
「書状令被見候、仍此表之儀、國割申付、各國々へ指下候、可御心安候、會津之儀者、来春令出馬、可致成敗候、其内御無聊爾様、御分別専一候、雖然最上表有加勢、無異儀様被仰付尤候、委細山岡志摩守口上ニ申候條、令省略候、恐々謹言 十月十五日 大崎少将殿 家康」(十月十五日 政宗宛徳川家康 書状)
「四日之御状到来、令被見候、仍最上相詰候敵、去朔日敗北之處、悉被討果之由候、又同八日之御状参着、至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄被押詰之由、無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、被入精之段、難申謝候、来春者早速、景勝成敗可申付候、其内御行無聊爾様肝要候、此表之儀、仕置等彌丈夫申付候、可御心安候、猶宗薫、村越茂介 可申候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将殿 家康」(慶長五年十月二十四日 政宗宛徳川家康 書状)
「度々尊書拝見、忝候、仍四日之御状、同八日御注進状、両通具披露申候、無比類御手柄、被入精之段祝着之旨、以直書被申候、猶以従我等式、懇可申入之旨候、来春者早速、景勝成敗可被申付候、其中御行無聊爾之様、御分別御尤之由候、此表手置彌丈夫ニ、被申付候、今国分 と被申付候、具従宗薫可被申候條、早々得御意候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将様 貴報 井伊兵部少輔直政」(慶長五年十月二十四日 政宗宛井伊直政 書状)
関ヶ原直後、家康は伊達政宗とともに翌慶長6年早々に上杉家を武力征伐する予定でいた。政宗は、慶長5年11月に届いた家康からの書状を請け、慶長6年2月17日に「家臣等軍役ノ人数改メ」を命じて内々に出陣の準備をしていたが、上杉家が本多正信 や結城秀康等を通じて降伏を願い出たため、結果的に上杉征伐は中止された。この間、伊達家と上杉家は大規模な軍事衝突こそ起こらなかったものの、国境付近での小競り合いと緊張関係は依然続いた。
慶長6年3月20日、上杉家の様子を探っていた政宗は伊達政景宛への書状で、家康との講和に傾いた上杉家が戦意を失い、籠城の用意のみで仙道口へ兵を出す状況にはない旨を知らせた(「会津ノ唱モ能々承候、籠城之用意迄ニ而、中々仙道口ナトヘ人衆可被出武體無之由申候、縦景勝被打出候共、サヨウノ時者、又當手ノ備、日之内ニモ其構可仕候條、不苦候」)。5月8日、政宗は、景勝領の置賜郡長井荘板屋へ侵入した石川義宗が、悉く焼打を行ったことを伏見の家康に注進した。
戦後

慶長6年7月、景勝と兼続は京都伏見に上洛し、8月に家康に謁見した。会津領は没収され、置賜郡(長井郡)と伊達郡、信夫郡の30万石に減封された。一方、政宗は和賀忠親の南部一揆への煽動関与の件により、念願だった先祖伝来の地の奪還は叶わず、戦後の論功行賞でも自力で占領した刈田郡2万石のみの加増に終わった。
古戦場の現在

松川と福島城

合戦の当時の松川は信夫山南麓を流れていたが、現在は北麓を流れている。当時の松川の跡は現在は祓川と呼ばれる小さな川の辺りが水路だったと言われている。また、政宗が陣を敷いた信夫山の黒沼神社のあたりは現在は信夫山公園として整備され、花見の名所となっている。戦いの激戦地は現在の福島市街地の中心部であり、面影は全くない。一方、本庄繁長 の居城・福島城は福島県庁となっている。
梁川城

梁川城は江戸時代になって廃城となり、その後梁川藩の陣屋として使われた。明治維新後は学校敷地として使われ、現在、城跡は梁川小学校、梁川幼稚園、梁川中学校、梁川高等学校として使用され、近隣にも土塁や掘の遺構がある。何度か発掘調査が行われ、梁川小学校校庭の片隅に中世庭園も復元され、梁川城跡は県指定史跡となっている。鎌倉時代から室町時代の伊達氏歴代の居城として有名であるが、現在の遺構はむしろ伊達政宗移封後の、蒲生氏時代または上杉氏時代に、対伊達氏政策で防備を強化して改築されたものであると考えられている。
梁川中心市街(梁川城下)から国道349号線を1.5kmほど北上して阿武隈川を越えると、左手に、当時、梁川城に対峙して伊達軍が布陣したという小山…大枝城跡がある。梁川城も小高い平山城であり、梁川城と大枝城からは、阿武隈川を挟んで相互に相手方がよく見える。
国見

伊達軍が布陣した国見の厚樫山(あつかしやま)の山麓も国指定史跡に指定されているが、源頼朝の奥州藤原氏征伐の史跡としてであり、伊達政宗の福島侵攻の本陣が置かれたことはそれほど知られていない。厚樫山の山頂には、現在展望台があり、国見という地名のとおり、福島盆地…特に伊達郡の梁川、保原方面を一望することができる。

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
[松川の戦い]の改定履歴

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コシャマイン 安芸武田氏 安国寺恵瓊 安達泰盛安東愛季 安東氏 安東政季 安藤守就 安藤盛季 安日彦 安倍貞任 伊達行朝依田信蕃一色義貫 一色氏稲葉一鉄 宇喜多直家 越前朝倉氏 遠山景任 奥平貞昌 下間頼照 河尻秀隆 河田長親 河内源氏岩成友通 吉良氏吉良満氏金森長近 九戸政実穴山信君 原田直政 源義家源義光源義康源義国源義朝源光行源頼義源頼朝戸田康光 後村上天皇 後醍醐天皇光明天皇甲斐源氏荒木村重 高山右近 高師直今川義元 今川氏今川氏真
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【2012/02/14 05:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
河野氏(こうのし / かわのし)
河野氏(こうのし / かわのし)は、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)における有力豪族で、越智氏の流れを汲むという。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書「予章記」はその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
他に2系統が存在する。
三好義長を遠祖とする、芥川長明の子、芥川季範が河野氏を称する。
桓武平氏 良文流 河越氏の流れを汲む河越重家が子孫が河野氏を称する。
概要

河野氏は河野郷(現在の松山市北条付近)を出自とする。当初は国衙の役人として活動していたと考えられているが、源平合戦で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた。その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。
平安・鎌倉時代

平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。
南北朝・室町時代

南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼春の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通尭は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。
室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。
戦国時代・安土桃山時代

戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力部将来島通康を巻き込む形で子の河野晴通と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮は叶わなかった。
国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や1581年の来島通総の離反など苦難は続いた。1585年、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして1587年、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。
河野氏遺臣の再興のための戦い

1600年には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ二千余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で夜襲を受け、完全に撃破されてしまった。これを「刈屋口の戦い」または「竹原崩れ」という。この後も荏原城などで残党が篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、完全に駆逐されていった。
河野氏主要名簿

系図

┃     通信     ┣━━━┓     通久 別府通広     ┃   ┃     通継  一遍     ┃     通有     ┃     通盛     ┃     通朝     ┃     通尭     ┣━━━┓      通義  通之     ┃   ┃     通久  通元 ┏━━━┫   ┃ 通生  教通  通春 ┃   ┃   ┃ 明生  通宣  通篤 ┃   ┃   ┃ 通吉  通直  通存 ┃   ‖   ┣━━━┓ 通直  通宣  晴通  通宣     ‖      通直
晴通、通宣(左京大夫)については通直(弾正正弼)の実子と言う説有
通直(伊予守)のについては来島氏からの養子とする説もある。
庶家

河野氏主要家臣団(戦国期)

河野諸氏末裔

秋山好古
秋山真之
正岡子規
馬越恭平
河野淳吾(Jリーガー)
河野直人(Jリーガー)
大石尚子(衆議院議員)
参考文献

川岡 勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内世界 戦国時代の西国守護』(愛媛新聞社、2004年) ISBN 4860870255
川岡 勉『中世の地域権力と西国社会』(清文堂、2006年) ISBN 479240603X
川岡 勉『河野氏の歴史と道後湯築城』(青葉図書、平成4年)ISBN 4-900024-07-4
こうのし こうのし * こうのし こうのし
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戦国武将一覧

?■石川高信
小野寺輝道
戸沢盛安
葛西晴信
大崎義隆
斯波詮高
伊達晴宗
伊達輝宗
伊達成実
片倉景綱
田村清顕
大宝寺義氏
相馬盛胤
岩城親隆
佐藤好信
二階堂盛義
金上盛備
佐竹義宣
江戸忠通
小田氏治
宇都宮国綱
宇都宮広綱
結城晴朝
水谷正村
大関高増
大田原綱清
千葉胤富
里見義堯
里見義頼
上泉信綱
由良成繁
北条早雲
北条氏綱
北条氏政
北条幻庵
北条氏秀
北条綱成
石巻康保
粟屋元隆
宇佐美定満
斎藤朝信
柿崎景家
直江景綱
直江兼続
新発田重家
椎名長常
畠山義綱
遊佐続光
長連龍
温井景隆
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長野工藤氏
長野工藤氏(ながのくどうし、単に長野氏とも)は、伊勢国に勢力を持った有力国人である。元来は工藤氏と称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。
藤原南家 乙麿(乙麻呂)流の一族で、曽我兄弟に殺された工藤祐経の三男・工藤祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸二郡を給わり、その子・工藤祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である。
鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨したが、南北朝時代に入ると、南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出する。このため、長野氏は北朝方に与して伊勢の覇権を争った。ちなみに、この時代に書かれた『梅松論』にも「長野工藤三郎左衛門尉」という名乗りの人物が登場している。
南北朝時代が終焉した後も北畠氏との抗争は続き、1467年からの応仁の乱でも長野氏は西軍(山名宗全側)、北畠氏は東軍(細川勝元側)に与してそれぞれが争った。
戦国時代に入っても抗争が続いたが、やがて北畠氏に英主と言われる北畠晴具が現れ勢力を拡大し、また、近江六角氏の北伊勢に対する圧力も強まると、長野氏の第15代当主・長野藤定は次第に力を失っていき、1558年、藤定は晴具の攻勢の前に遂に屈服し、晴具の嫡男・北畠具教の次男・長野具藤(長野御所)を養嗣子として迎えた上で、長野氏第16代の家督を継がせた。これにより両家は講和し、長野氏は北畠氏の傘下となったのである。
晴具の没後まもなく、尾張の織田信長が伊勢に侵攻してくる。晴具の後を継いだ具教と、長野氏の当主である長野具藤は織田軍に抵抗したが、信長の攻勢の前に敗れ、北畠氏は信長の次男・織田信雄を、長野氏は信長の弟・織田信包を養嗣子として迎えた上で家督を譲ることを余儀なくされ、北畠・長野両家は今度は織田氏によって傘下に置かれたのである。
そして1576年11月、信長の命令で北畠具教が暗殺された後、長野具藤も田丸城で北畠一族もろとも殺される。信包も後に織田姓に復し、国人領主としての長野氏は滅亡した。
歴代当主

長野祐政【一】
長野祐藤【二】
長野祐房【三】
長野藤房【四】
長野豊藤【五】
長野経藤【六】
長野義藤【七】
長野光忠【八】
長野宗忠【九】
長野政藤【十】
長野藤継【十一】
長野藤直【十二】
長野通藤【十三】
長野稙藤【十四】
長野藤定【十五】
長野具藤【十六】
織田信包(長野信包)【十七】
系図

工藤 祐長 ┣━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓ 祐政 有坂祐光 祐能 坂本祐氏 祐忠 祐朝 祐広 ┣━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓ 祐藤 祐泰 祐村 祐政 祐宗 祐重 祐兼 祐賀 能氏 祐貞 祐宗 祐賢 祐継 祐盛 祐藤 祐泰 祐村 祐政 ┣━━━━┳━━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓                 ┃ 祐房 雲林院祐高 祐冬 高景 祐景 泰祐 祐光 ◇                 友房     ┃      ┃ 藤房  分部氏へ                                     ┣━━┳━━┓ 豊藤 祐茂 祐経            ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓ 経藤 分部祐成 細野藤信   ┣━━┳━━━┓          ┃ 義藤 藤忠 川北藤照 細野氏へ   ┃ 光忠 ┣━━┓ 宗忠 教藤    ┣━━┳━━┳━━┓ 藤直 藤継 祐藤 政藤                                   ┃        通藤            ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓           稙藤 細野藤光    ┣━━┳━━┳━━━━┓      ┣━━━━┳━━━━┓    藤高 藤定 藤光 雲林院植清 細野藤敦 分部光嘉 川北藤元 ┣━━━━┳━━━┓           北畠具藤 織田信包 藤勝
一族・家臣団

分部氏
分部光嘉
分部光信
細野氏
細野藤光
細野藤敦
雲林院氏
川北氏
なかのくとうし *
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【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
三村氏
三村氏(みむらし)は備中を支配した戦国大名。同流・信濃三村氏と区別するため、俗に備中三村氏ともいう。家紋は剣方喰・丸に三柏など。
発祥期〜備中西遷

もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者と思われ、鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった。
吾妻鏡では、『親』を通し字とする数名の三村氏が既に確認できる。
伝承によれば、小笠原長経三男の長時(「長持」とする小笠原系図も一部にあるが、写本時の誤記であろう)が常陸国筑波郡三村郷に移り、その子・親時の頃より三村氏を称したという(とはいえ、三村氏を称した時期については諸説ある)。
三村郷には小笠原長時の叔父にあたる小田五郎清家がいたとされ、その関係で長時は三村郷に縁が出来たのではないかとも言われる。
常陸国筑波郡三村郷を苗字発祥の地とする小笠原長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬郷(せばごう、せまごう)の地頭(いわゆる新補地頭)になったとされる(信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流を派生しつつ、以後小笠原氏家臣・武田氏家臣として、信濃を中心に一定の活躍をみた。
その信濃三村氏の一流が鎌倉後期までに備中星田郷の地頭(新補地頭)となって当地に移住したことにより、備中三村氏の歴史が始まる。
いわゆる西遷御家人である。
鎌倉後期〜戦国期

鎌倉後期以降長らく、備中三村氏は星田郷や成羽を支配する備中の一豪族に過ぎなかったが(国人化していた)、16世紀前半に三村宗親が分流である石蟹氏などと対立しつつも徐々に勢力を伸ばす。
息子三村家親の代には毛利氏の後ろ盾を得て備中をほぼ統一し、備前や美作においても部分的に勢力下・支配下におさめ、戦国大名として名を轟かせる。
その後も家親は備前や美作へのさらなる勢力拡大を図るが、1566年には鉄砲に精通した阿波出身の遠藤兄弟を利用した宇喜多直家によって暗殺されてしまう。
家親の死後、宇喜多氏との兼ね合いもあって、庄氏一部の叛乱を許すなど一時三村氏は衰退するも、勢力を盛り返した。しかし、三村氏不倶戴天の敵である宇喜多直家と毛利氏が(吉川元春の強固な反対を押し退けて)安国寺恵瓊・小早川隆景の仲立ちによって同盟関係を結んだことに端を発する1575年の備中兵乱において、毛利氏に攻めに攻められて(宇喜多氏は備中兵乱最後の山場である備前常山城攻めなどで、辛うじて僅かに出兵したのみ)、家親の子・三村元親は自害。戦国大名としての三村氏は滅亡した。
元親に近い血筋の者は,毛利氏方についた三村親成などの係累を除き,因幡・阿波・讃岐等各地に落ち延びていった。二松学舎大学創立者で皇室への出入りのあった漢学者三島中洲(毅)を初めとして,三村氏子孫を称する家系は備中地域などに少なくない。
江戸期

三村親成の系統は、水野勝成との縁故(二度に亘り寄食させ、養女(実は三村家親の末娘)を正室に娶らせた)から備後福山藩家老職を務めた。他に岡山藩に仕官した系統などもある。
上田實親の遺児三村勝親・三村吉親のうち、前者の系統は讃岐高松藩士となり、後者の系統は幕末の備中松山藩士三島中洲家となった。
この他にも江戸期において藩士として禄を食んでいた三村氏子孫の系統は数家あったようである。
備中・信濃両三村氏の関係

備中三村氏・信濃三村氏の関係については不詳とする文献もある。特に備中三村氏が初期に本拠地としていた星田郷などが「三村荘」と呼ばれる荘園内に属したと考えられることから、備中三村氏の苗字発祥の地(本貫地)を「三村荘」と比定する説も流布している。
しかし、両三村氏はともに(1)家紋(剣方喰・丸に三柏など)・(2)通字『親』(ちか)を長きに亘って共通としており、(3)備中三村氏の根拠地である備中星田郷周辺には「洗馬」に通ずる「洗場」の地名がある(地名遷移)。また(4)信濃三村氏子孫においても、苗字発祥の地を常陸国筑波郡三村郷と伝え、小笠原氏分流を称する家がある。(5)備中三村氏が西遷御家人子孫であると室町期の国人間でも認知されていた。
これらのことから、両三村氏は同流・同族と見て間違いないであろう。三村家親なども神社をわざわざ信濃より勧請しており、信濃に深い縁故を感じていたふしがある。
なお、備中三村氏が古くから小笠原氏分流を名乗る一方,現に信濃小笠原氏臣下にあった信濃三村氏は源頼親子孫などとも称している。
系譜

源義清  ┏┻━━━━━━━━━━━━┓ 加賀美遠光        武田清光           ┃   小笠原長清    ┣━━━━━━┳━━━━━━┓ 小笠原長経  伴野時長  大井朝光  ┣━━━━━━┓       小笠原長忠 小笠原(三村)長時(住常陸国筑波郡三村郷)      ┃  三村親時         ┃  親屯(信濃国筑摩郡洗馬郷)         ┃  親實(備中国小田郡星田郷)         ┃       能實         ┃           親経         ┃            親基          ┃   親隆 ┃ 時親 ┃   宗親    ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓       家親                            親成          親頼                                   ┏━━━┳━━┻┳━━━┳━━━┳━━━┓          (備後水野福山藩家老家祖) 庄元資  元親  元範 上田實親 元高  於柵(水野勝成正室)
備中三村氏一族

三村能實
三村宗親
三村家親
三村元親
勝法師丸
三村親成
庄元祐(元資)
三村元範
上田實親
上野隆徳
鶴姫(上野隆徳室)
三村親宣
三村親良
三村親安
三村親澄
石川久智
石川久式
三村政親
於柵(備後福山藩初代水野勝成正室)
備中三村氏を扱った主な書籍

新釈 備中兵乱記
備中兵乱 常山合戦
鬼哭の城(きこくのしろ)
瀬戸の軍狼
女甲冑録
おんなたちの戦国史 武将を支えた21人
備前児島と常山城 戦国両雄の狭間で
その他の三村氏

南北朝時代に新田義貞の叔父新田俊信が出羽に逃れた後の子が、三村頼信という。ただし、北朝に敗れた後身を隠すために東海林俊久を名乗っており、三村氏は一度消滅している。その後彼の次男の家系が南北朝合一後、源氏一門として三村氏を名乗った。
*みむら *
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戦国武将一覧

?■朝倉宗滴
板垣信方
甘利虎泰
飯富虎昌
山県昌景
馬場信春
高坂昌信
内藤昌豊
真田幸隆
真田信之
初鹿野忠次
小原広勝
高遠頼継
諏訪頼重
小笠原長時
太原雪斎
酒井忠次
榊原康政
石川数正
井伊直政
大久保忠佐
渡辺守綱
前田利益
豊臣秀長
豊臣秀次
蜂須賀正勝
蜂須賀家政
竹中重治
加藤嘉明
稲葉良通
姉小路頼綱
小西行長
一色義道
稲富祐秀
足利義晴
島清興
松倉重信
森好之
細川晴元
三好義賢
安宅冬康
畠山高政
鈴木重秀
波多野晴通
赤井直正
籾井教業
赤松晴政
別所就治
小寺政職
黒田長政
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少弐氏
少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家の秀郷の子孫と称する武藤氏の一族。
経歴

出自

少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
平安時代末期から鎌倉時代

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この源頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。
鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は子の少弐経資や少弐景資らとともに戦い、孫の少弐資時は弘安の役の時壱岐で討死している。戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部9州における最大の守護大名にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。
鎌倉時代後期

少弐資能の死後、経資と景資との間に家督をめぐっての争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、景資は泰盛の子の安達盛宗とともに、頼綱側についた経資と戦い敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。
鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。
南北朝時代

南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府を奪われる。
室町時代

九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。
戦国時代

戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。後に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。当時の肥前は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。
滅亡

資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。
少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。
しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。その後、政興は大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。
少弐氏一族

武藤資頼【初代】
少弐資能【2代】
少弐経資【3代】
少弐景資
少弐盛経【4代】
少弐貞経【5代】
少弐頼尚【6代】
少弐直資【7代】
少弐冬資【8代】
少弐頼澄【9代】
少弐貞頼【10代】
少弐満貞【11代】
少弐資嗣【12代】
少弐嘉頼【13代】
少弐教頼【14代】
少弐政資【15代】
少弐高経
少弐資元【16代】
少弐冬尚【17代】
少弐政興(基本的に政興は当主として認められてはいない)
系譜

凡例 太線は実子。細線は養子。
(武藤氏、少弐氏)      頼平      │      資頼      ┃     資能      ┣━━━┓      経資  景資      ┣━━━┓      盛経  資時      ┣━━━┓      貞経  資法      ┣━━━┓      頼尚  頼賢      ┣━━━┳━━━┓      頼澄  冬資  直資      ┃      貞頼      ┣━━━┓      満貞  頼房      ┣━━━┳━━━┓      教頼  嘉頼  資嗣      ┣━━━┓      政資  胤資      ┣━━━┓      資元  高経      ┣━━━┳━━━┳━━━┓      冬尚  胤頼  政興  元盛
庶家

鍋島氏
馬場氏
筑紫氏
横岳氏
朝日氏
少弐氏方の人物

少弐支族

朝日氏
朝日資法
横岳氏
横岳頼房
横岳資貞
横岳資誠
馬場氏
馬場頼周
馬場政員
馬場鑑周
筑紫氏(支族ではないとする系図もある)
筑紫教門
筑紫満門
その他

肥前小田氏
小田資光
小田政光
小田鎮光
小田賢光
神代氏
神代勝利
神代長良
神代家良
江上氏
江上元種
江上武種
多久氏
多久宗時
多久宗利
宗氏
宗貞盛
宗盛国
宗貞国
その他
高木鑑房
執行種兼
関連氏族

渋川氏
大内氏
九州千葉氏
龍造寺氏
外部リンク

武家家伝_少弐氏
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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戦国武将一覧

?■石川高信
小野寺輝道
戸沢盛安
葛西晴信
大崎義隆
斯波詮高
伊達晴宗
伊達輝宗
伊達成実
片倉景綱
田村清顕
大宝寺義氏
相馬盛胤
岩城親隆
佐藤好信
二階堂盛義
金上盛備
佐竹義宣
江戸忠通
小田氏治
宇都宮国綱
宇都宮広綱
結城晴朝
水谷正村
大関高増
大田原綱清
千葉胤富
里見義堯
里見義頼
上泉信綱
由良成繁
北条早雲
北条氏綱
北条氏政
北条幻庵
北条氏秀
北条綱成
石巻康保
粟屋元隆
宇佐美定満
斎藤朝信
柿崎景家
直江景綱
直江兼続
新発田重家
椎名長常
畠山義綱
遊佐続光
長連龍
温井景隆
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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